河内国壺井八幡宮/壺井権現社(大阪府)その弐

摂津国多田神社を跡にして、河内国壺井八幡宮/壺井権現社に向かいました。
一般道を車で移動したのですが、同じ大阪府内なの時間がかかってしまいました。
やはり摂津国から河内国へと国が変わりますのでね、遠かったです。

駐車場に車を停めて、この鳥居前から参拝をスタートします。
摂津国多田神社では降雨・曇天でしたが、河内国壺井では晴天になりました。

 

鳥居を潜って左手側に「清泉壺井」があります。
こちらでも雨が降っていた様で、井戸の周りが濡れていました。
案内板には

「清泉壺井」
                                   所在地:羽曳野市壺井400

前九年の役の際、天喜五年(1057)に東北地方の戦地に赴いていた。源頼義とその子の義家が大かんばつのため飲み水に困り果て、敗北を余儀なくされようとしていました。
 そのときに、頼義が馬から降りて着用していた鎧を脱ぎ、天を仰いで祈念し、自ら弓矢を岸壁に向かって射たところ、そこから清水が湧き出して渇きをいやすことができたといいます。
 戦に勝利して、この湧水を壺に入れて持ち帰り凱旋したときに、井戸を掘りその底に壺を埋めて壺井水と称したといわれています。

とありました。
これ自体が「史跡 壺井水」だそうですよ。

 

紙垂が提げられていますので、

神聖なる井戸として守り継がれています。

 

埋め立てられていますがね(笑)。

 

偶々撮れた、この画像。
深い井戸の如く見えますが・・・錯覚ですよ。
源頼義が埋めた壺、どのくらいの深さにあるのでしょうかね?

 

さて、石段を上っていきますぞ。

そんなにキツくないんですよ。
上るとゼイゼイ息切れするんですがね(笑)。

 

あと、もうチョイで上りきります。

 

鳥居には「八幡宮」の額が掛かっております。
〝天照大神の恵み〟が射してきました。
もう、お約束みたいなモンですね。

 

前回の参拝時には、何故か気付かなかった

大阪府指定天然記念物「壺井八幡宮の楠」です。
よくもまぁ、こんなに大きな神木を見過ごしていたなんて・・・。

 

ですからねっ、今回はしっかりと天然記念物「楠」を愛でました(笑)。

手前には石でモニュメントが配されていますね。
白石の碑には
 「樟茂り河内源氏史守る寡居」
と刻まれています。
河内源氏の弥栄を称える?願う呪文でしょうか?(笑)

 

石を並べているのも、何らかの呪術・・・でしょう(笑)。

 

この楠、注連縄が張られていますので神木ですよね。
1943(昭和18)年8月23日に天然記念物の指定を受けたそうです。

 

ご覧くださいな、この根の張り方っ!
源頼信がここを住まいとした時、
源頼義や源義家が育っていた時、
この楠に触れていたのでしょうかね?

 

枝や幹が処々伐られてはいますが、生命力が並外れて強力です。

 

近付いて触れてみました・・・が、鈍感なので何も感じることはありませんでした。
イイんですよ、河内源氏発祥の地で逞しく活きている神木に触れただけで喜ばしいのです。
当然、スリスリなんてしませんよ。
手を当てただけです。
視覚的に〝無骨な楠〟というのは感じましたよ(笑)。

 

この神木(楠)の横に立って、階段を上りきったところに建つ鳥居を望んでいます。
この楠、壺井八幡宮/壺井権現社に参拝する人びとは勿論、河内源氏の人びとの往来をも、こうして眺めていたのでしょうね。
そう考えると、感動ものですよ。

 

さて、社務所の手前に位置している手水舎です。

龍(ドラゴン)が居ますね。

 

龍(ドラゴン)の顔を観るとぶちゃ・・・
頬を膨らませている、個性的な表情をしています。

 

大きく身を乗り出していますね。
この時は、水を吐いていませんでした。
だって、夕方(17時前)だったんだもん。

 

授与所で朱印をいただこうと、この手水舎に辿り着いたところ、丁度おばちゃんが社務所の戸締まりをして撤収しようとされていたのです。

 「大変申し訳無いのですが、朱印をいただけますでしょうか?」
と、声掛けしたところ、おばちゃんは快諾してくださいました。

朱印帳を預けると、時間がかかるから境内を散策する様に促されました。
ちょいと、おばちゃんと話をしたら
 「あらっ、多田さん(摂津国多田神社)にお参りしてきたの?」
と問われ、話が盛り上がりました。
八幡宮の息子を同行していたのですが、その話をすればもっと盛り上がったのでしょうかね?

 

さて、壺井八幡宮に参拝です。

壺井八幡宮って
平清盛の軍勢に襲撃され焼失したそうです。
だから平氏一門は長門國壇之浦に沈むのです。
南北朝の争いで南朝側に攻撃され焼かれたそうです。
だから後醍醐天皇は京に帰還することなく吉野の山ん中に埋まることになるのです。
織田信長も焼き討ちしたそうです。
だから〝金柑頭(明智光秀)〟の謀叛で自刃するのです。

 

焼失しては再建を繰り返したそうですが、現在の八幡宮は1701(元禄14)年徳川綱吉の命令を受けた柳沢吉保が再建したものだそうです。

「太刀 銘安綱」、一般に「天光丸」として知られている源義家の佩用太刀が納められているそうですよ。
その姿、観たいものです。
観たら「天光丸」をイメージした太刀を特注しちゃいますがね(笑)。

 

こうして八幡宮前で遊んでいたら、空模様が騒がしくなってきました。

 

隣り合っていますが、壺井権現社にも参拝します。

鳥居に近付き・・・

 

もっと近付き、

 

潜っちゃいました。
権現社の拝殿前です。

 

権現社前の狛犬一対(阿吽)です。
向こう(権現社の狛犬)がどう思っているのか知りませんが、未だ懐いていません。

 

金色に輝く
「 正一位
  壷井權現  」
の額が掲げられています。

大権現ぢゃねぇ~んですね。
徳川めっ(笑)。

 

拝殿の裏にまわると

権現社・本殿がございますよ。

 

壺井権現社は1109(天仁2)年、源義時(義家5男もしくは6男)が源頼信・源頼義・源義家を祀ったことに始まるといいます。
やはり権現社も荒廃し、多田義直が柳沢保明(後の吉保)や徳川綱吉の護持僧・隆光へ積極に働きかけたことで徳川綱吉の命令を受けた柳沢吉保が再建することになったといいます。

 

「壺井宮廟」の額が掲げられています・・・が、その下の三つ葉葵が気に入りません。
何度も焼失と再建を繰り返すとね・・・。
しかも3人共、ここには居ませんからね。

 

前の参拝は酷暑でした。
へばっていた猫は、片付けられた様ですね。

 

社務所に戻り、朱印帳をもらって、札やグッズを頂戴して、おばちゃんと話をして謝意を伝えました。
 「また、参拝させていただきますね。」
と挨拶しましたよ。
壺井八幡宮/壺井権現社のある高台、居心地イイですもん。

画像では未だ明るく見えますが、だいぶ夕暮れの状態なのです。
この跡、大和国奈良へと戻るのですが、雨が強くなるは・・・で大変でした。

因みに奈良へ戻る前、「源氏三代の墓」に立ち寄りましたよ。
ホンに暗くなる前です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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