大和国平城京長屋王邸宅跡(奈良県)

ここ3年ほど、大和国に入り浸っています(笑)。
山城国も素敵なのですが混雑し過ぎていて・・・あっ、コロナ禍の影響でそうでもなかったのですがね。〝イイ遊び場所〟を幾つも見つけてしまったので致し方ありません。

以前から訪れたいと何度も思っていたのですが、機会がありませんでした。
公共交通機関を利用すると、行動範囲はかなり制限されてしまいますからね。
ここ最近続けている「年末駆足初詣」他、今後も継続していく所存ですが、〝1回、アノ場所を探訪スポットとして訪れよう〟ということで、行ってきましたよ。
この記事に掲載している画像は、2022(令和4)年の夏のものです。酷暑の時でしたよ。
〝アノ場所〟とは、奈良県民の間では身近な買い物スポットとされている「長屋王邸宅跡」にございます。

長屋王は奈良時代、藤原不比等没後の朝廷で首班となった皇族・政治家です。
 父・高市皇子(たけちのおうじ)  =天武天皇(大海人皇子)の長男
 母・御名部皇女(みなべのおうじょ)=天智天皇(中大兄皇子)の娘
で、天武天皇の孫として皇親においては極めて嫡流に近く、傍系皇族の最有力者と目されています。

吉備内親王の姉である元正天皇(氷高皇女)は即位以前、妹の吉備内親王と同居していた様で、そうした状況から元正天皇は義弟の長屋王に対する信任が厚かったと考えられています。長屋王は妻の姉(元正天皇=氷高皇女)、そしてもうひとりの妻・藤原長娥子(ふじわらのながこ)の父である藤原不比等の政治的な支援を受けつつ政治家としての才能も発揮していたと考えられています。

いわゆる「長屋王家木簡」は710~717年頃にかけての木簡群で、平城京の左京三条二坊八坪の東辺、長屋王邸東門のすぐ内側にあった溝状遺構から出土した文字史料です。

「長屋皇宮」や「長屋親王」という表記を持つ木簡から、広大な邸宅の主が長屋王であったことが特定されました。奈良時代初期の皇族の家政事情、つまり生活の様子が具体的に判る貴重な史料です。遺物は保存されましたが、残念なことに遺跡は破壊されてしまいました。

そもそも発掘調査は、百貨店「奈良そごう」の建設予定地で行われたもので、発掘調査後の1989(平成元)年には「奈良そごう」が開店しました。〝遺跡として保存すべき〟という多くの声があったにもかかわらずです。
敷地内に記念碑の様なものが設けられていますが、長屋王邸の往時の様を表すべくもありません。経営破綻によって「奈良そごう」は閉店に追い込まれ、この建物には2003(平成15)年に「イトーヨーカドー奈良店」が入って開店しましたが2017(平成29)年に閉店となってしまいました。その後、改装工事がなされて2018(平成30)年に観光型複合商業施設「ミ・ナーラ」が営業しています。
この様に〝長屋王邸宅跡〟の上の建造物に入った大企業が2つも閉店となった事実から、〝長屋王の祟り(呪いとも)〟と真やかに囁かれています。

「祟り」とは事象の発生が予見できる、または発生が当然のものと認識される場合のものです。これに対し「呪い」とは何者かの自主・主体的な行為によって実現するため、発生の予見は難しいものを指します。
・・・とすれば、「長屋王の祟り」は正しい用例ですが、「長屋王の呪い」は誤った用例となりますね。

 

蘊蓄は扨置き、電車から遠目に見ていた「イトーヨーカドー奈良店」(当時)を、遂に体感することができました。

「展望レストラン跡」を写真に納めていました。
陽射しがあるのに、何故か儚げな印象を受けました。「祟り」の影響なのでしょうかねェ(笑)。

駐車場に車を停め、モニュメントのもとに向かいます。

                                        (Google マップより作成)

黄色い○枠で囲ったのが、間近で見ようとしていたモニュメントの位置です。

「展望レストラン跡」の写真を撮って間もなくの場所に、

こちらのモニュメントが位置しています。
よく目にする画像ですよね。

視点を変えて見ると

こんな感じ。目立たんこと、この上なしですがな。

 

このあと、もうひとつの入口前にあるというモニュメントに向かいます。

途中、「M!Nara」の「新大宮駅ルート」シャトルバスに遭遇しました。
祟りやら呪い(笑)やらと言われていますが〝交通の便の悪さ〟、「悪さ」とは言っても他のショッピング・モールと比較してですがね、こうしてお客さんが利用し易い様に工夫・努力がなされている訳ですよ。

 

そのまま歩みを進めると入口が見えてきました。

「奈良そごう」の往時の佇まいが偲ばれますなぁ。
ついつい、寄っちゃいました。

鹿のデザインが〝奈良っぽい〟。
武蔵国から出向いていますのでね、こうした意匠が嬉しく、そして楽しいのです。
〝黒い〟のは何かって?
そりゃ、反社会的存在と戦闘中にありますのでね。「身の安全のため」の措置です(笑)。

 

はい、こちらが入口前にあるモニュメントです。

歴史的な大物に関連する場所ですからね、もっとどうにかして欲しいですよね。
位置的にも難しい問題がありそうですね。
道の反対側に庭園跡(平城京左京三条二坊宮跡庭園)がありますので、「それでいいじゃないか」という意見もあるでしょう。
そんなこと言うから「呪われちゃう」んですよ(笑)。

 

先に挙げたGoogle マップ中の赤い丸枠内には、「奈良そごう」開業前に〝長屋王の霊を鎮める〟目的で設けられた祠(ほこら)があります。
例の如く事前に調べることはほとんどせずに現地を訪れますのでね。新鮮な発見があり、それもまた一興なのです。

同行者が「祠があるみたいですよ」と提言してくれたので、向かいます。
この提言が無ければ、帰還して画像整理中に後悔するところでしたからね。危ない、危ない。

いやいや、これは判らんって。
知らなければ、ここには行けませんでしたよ。

 

長屋王を鎮めるための「祠」、の正面に立って撮った画像です。
「小せえなぁ」と思われるでしょうが、周囲の植木も含めると、まぁまぁな面積です。
長屋王が「静める」対象なのかは意見の分かれるところでしょうがね。

ちょいと斜めから

手入れがされている印象は薄いですが、榊の葉は定期的に交換されている様ですね。

案内板には

長屋王(ながやおう)略記
天武天皇の孫で高市皇子の子である
長屋王は天武十三年に生まれた。二十一歳
の慶雲元年にには無位から正四位上になつて
以後順調に昇進、養老元年(717)右大臣、神亀
元年(724)聖武天皇即位のときに正二位左大臣
となり皇親勢力の中心人物として奈良時代
初めの政治に重きをなした。『長屋王家木簡』
は彼が正三位式部卿の時期のものである。
天平元年(729)二月密告により謀反の疑いをう
け邸宅を囲まれ十二日妃吉備内親王や子と
ともに自殺した。四十六歳であつた。
これが長屋王の変で藤原氏の陰謀といわれる
吉備内親王は草壁皇子の子で文武、元正天皇
と兄弟である。長屋王は文化人としても知
られ万葉集や懐風藻に多くの作品を残す。
懐風藻には文人たちが長屋王宅の宴でつく
った漢詩が多数収録されている。また仏教
にも関心が深く長屋王が文武天皇追善のた
めなどに書写された大般若心経和銅経神亀経
にも残っている。

と、墨書が施されています。
今度、ちゃんと画像を撮ってきますね。

単にデパートの駐車場に車を停めて、その周りを廻っただけですよ(笑)。
でもねっ、凄く楽しかったんです。
これが「探訪エンターテイメント」の真髄ですよ。
また訪れますよ。長屋王邸宅跡地と、その近辺にね。

 

 

 

 

 

 

 

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